東京大学村上文緒愛好会

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一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

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筆者自身の体験を一つ。高校生のころ、国語の授業で萩原朔太郎の「帰郷」という詩を読まされた記憶がある。この時は、離婚した萩原朔太郎が、子どもを連れて帰郷する折りの上越線 (現在の高崎線) 車内での心境を歌ったものである。私はこの「帰郷」が好きである。しかし、離婚経験どころか、恋愛経験もあまりないであろう高校生に、離婚した男の心境を歌った詩を鑑賞させる時間があるなら、もっとほかにやるべきことがあるだろう。
小学校、中学校、高等学校と、国語の授業では「読解」と称して、ほとんどの時間は誰かの書いた文章を読まされる。試験では、文章の解釈を問われる。多くの場合、教師が言う正解を聞いて「そういう風に解釈するのはあんたの勝手じゃないか。僕の解釈だっていいじゃないか。あんたの解釈を押しつけないでくれ」「国語は趣味の世界か」とよく思ったものだ。
萩原朔太郎の詩を読ませたり、文章で教師の解釈を生徒に押しつけたりする暇があれば、ほかにやるべきことはいっぱいある。そんな時間があれば、作文の練習に割くべきである。作文というよりは、論理と呼ぶほうが適切かもしれない。自分の考えを、筋道立てて他人に説明する訓練が日本の教育には欠けている。他人に筋道立てて説明できないということは、自分自身にも説明できないということ、すなわち、自分でも考えがまとめられないということである。
小中高等学校での国語の授業でそうした訓練がされていないため、最近の大学では、入学してきた学生に作文を教えているところが多い。「文章表現法」という科目を設けている大学もある。このような授業は
大学ではなく、小学校、中学校、高等学校でこそ行われるべきである、
外国では、論理や議論の訓練を、かなり小さい時から学校教育で行うが、日本の学校教育にはいまだにない。国語の授業の内容を見直し、日本語で考える訓練をする必要がある。日本語は十分に論理的なのであるから、日本語の論理を自覚してそれを伸ばすべきである。
こうした主張は、筆者だけのものではない。同様のことを言語学者の長野賢が述べているので紹介する。永野は『感動中心の文学教育批判』(永野 1998)の「はしがき」で次のように言う。
国語教育は国語を正解に理解し的確に表現する能力-言葉の力-を養うことを目的とするものであるが、その主軸は文法教育であるというのが、私のかねてからの主張である。(中略) ここに「文法」というのは要するに「言語の論理である」。(中略)
そういった私の考えの根底には、現在に至るまで国語教育の主流と考えられているいわゆる文学教育への疑念がある。私はここ数年ずっと文学教育なるものの主観性を排除すべきことを説いてきた。近年、国語教育界では「感動中心の文学の授業」から脱却して「言葉の力をつける授業」をこそ重んずべきだとの声が大きくなってきたようである。
文学は本質的に感動を誘うものであるが、その感動は個人によって深浅の差がある。(中略)
感動中心がいけないのではなき、一定の感動を強要したり、感動の中身をあげつらったりすることが問題なのだ。(中略)
一言で言えば、感動中心の文学教育は文章の論理を無視して事柄中心に突っ走ることが多いためである。(中略)
論理の本質は感受性や思考の根底を貫く秩序なのである。

このような意見は、徐々に増えつつあるようである。文部科学省のホームページ (文部科学省 204b)にも、以下のように書いてある。
国語科の授業時間を増やすとともに、「文学」(あるいは「読書」)では読み深める、「言語」は「書く」と「聞く・話す」を取り上げるというように、教科内容を情緒力の育成を中心とした「文学」と論理的思考力などの国語の運用能力の育成を中心とした「言語」という2分野に整理していくことも考えられる。

ここで「言語」と言っている分野が、筆者が言う「論理」に相当するだろう。「言語」という名称も「論理」という名称もどちらも適切ではないが、しかし、もっと適切な言葉が思いつかない。だが、ともあれ、この「言語」(論理)に相当する教育を、立ち上げるべきものと考える。

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