高橋涼介

高橋涼介

よろしくお願いたします

Amebaでブログを始めよう!
第一のポイント「今、何故ソシュールか」という彼の思想の現代性を問うことは、私自身の問題意識の確認でもあります。フェルディナンド・ド・ソシュール Fredinand de Saussure 、このジュネーヴの言語哲学者といわれているソシュールを何故日本人である私たちが読むかと言うことに関して、私は少なくとも三つの理由を考えております。
まず最初に、構造主義とか、記号学もしくは記号論との関連があげられるでしょう。最近「構造社会から記号論へ」という声がよく聞かれますが、これがどうも気になるのは、ひとつのブームからまた別のブームへという浅薄な流行現象のようにも見られることです。ひと昔前には猫も杓子も構造主義、そしていまは記号論、あるいは記号学、こういう名前で講演会でも開こ卯ものなら、たいへん人が集まるというようなこともちょっと耳にいたしましたが、私はこれが単なるひとつのブームからブームへの移行であってはならないと考えているのです。この流行現象やそれに伴う混乱は、構造主義と記号学の原点とみなされるソシュール理論の未消化ないし誤解から生じているのではないか。一度ここで、その虚像と実像のあいだに光をあててみる必要があるのではないか、ということなのです。
ご記憶の方も多いと思いますが、1960年代、とくに日本の場合は後半であったと思いますが、構造主義ブームが起こりました。「構造主義とは何か」というタイトルを冠した本がたくさん出ましたし、また雑誌の特集なども企画されました。これはヨーロッパに起きたブームの輸入現象ですが、あちらではこうしたブームに対する批判がなかったわけではなく、たとえばレーモン・ブードン R.Boudon は、「フランスでは構造主義が万能薬になってしまった」と皮肉り、1968年に来日したアンリ・リフェーブル H.Lefebvre (フランスの哲学者 1901~91) も「構造主義者たちは誰にでも受け入れられる有効で正当な概念を出発点としてこれを拡大し、この概念によって研究できるものを超えたところまでいってしまった」というような批判をしています。
そのほか、反構造主義といわれた人々のなかにはサルトル J.P.Sartre (フランスの哲学者、小説家。1905~80)や『テル・ケル』の執筆者たちが含まれるでしょうし、また、それぞれニュアンスの相違はありますがデリダ J.Derrida (フランスの哲学者。1930~2004) 、トドロフ T.Todorov といった人々からも構造主義、とくにソシュール主義批判というものが出されていた状況があります。
そして彼らの批判の槍玉にあげられたいわゆる「構造主義者」は、まず、ソシュールの理論をヤーコブソン R.Jakobson (アメリカの言語哲学者。1896~1982) を介して文化人類学、民族学の分野に適用したレヴィ=ストロース C.Lévi-Strauss (フランスの人類学者。1908~2009)でした。彼は、文章に記録された人間の意識的な営為、意識的な行動を中心とする歴史学に対して、社会の無意識的な構造を明らかにする民族学 ethnologie を提唱した人です。そのほか、精神分析の分野ではジャック・ラカン J.Lacan (フランスの精神分析学者。1901~81)。彼は、フロイト S.Freud (オーストリアの精神分析学者。1856~1839) の正しい継承者と自らを位置づけながら、ソシュールを援用してこれを乗り超えようとした構造主義者とみなされましたし、また自らは構造主義者であることは否定はしましたが、ミシュル・フーコー M.Foucault (フランスの哲学者。1926~84) の名を挙げることもできるでしょう。フーコーは近代の各時代における<知> savoir の可能性の条件、すなわちエピステーメーの哲学的な探求に構造主義的な理論をある程度まで利用したと考えられたからです。